もちろんこのblogのこと.最後に書いたのが去年の9月28日ですから、まるまる3ヶ月ですか.実は10月に、かねてから療養中だった父が亡くなりまして、それがショックでって言うわけでもなかったんですが、なんとなくblogの気分から遠ざかっていました.
こういう時ってなから書き出せばいいかよくわからないのですが、とりあえず病歴を.父は胃ガンだったんですけれど、異常を感じたのが2011年の年末だそうです.ちょうどその直前の秋に家族で温泉旅行に行って、ホテルの食事がとてもおいしくて、ヨーロッパかぶれの父は「日本人は腹一杯っていうけど、フランス人はノド一杯って言うんだぞ」って言っていたんですけれど、その時点で異常があったようですね.年末に「ゲップがしたいのにのどが詰まってゲップが出ない」と言い出して、そういうことを言い出すと、そのことばっかり一日中言うような面倒くさい人なので、母がすぐに近所の「何でも見る科」の病院で胃カメラをしてもらったら、もうその時点で一見してアウトな状態の胃ガンだったそうです.
すぐに名古屋の日赤病院に行ったのですが、わかった内容は、即、胃の全摘出が必要であること、ガンの種類は一番たちの悪い4型(ポリープも何も出来ないで、胃壁の中を横に染み渡るように広がっていくガン)で、進行度はもしかすると4度まで達しており、胃壁を通過して、他の臓器に転移している可能性があるということで、そうなると手術をしても意味なしと言う、けっこう緊迫した事態でした.年が明けて2012年の1月に手術をしたのですが、結果は意外に良好で、検査の結果でも、ガンの進行度は2から3で、他の臓器やリンパ節への転移も無しと言うことで、胃の全摘出をもってガンの全摘出完了という、予想された中では一番いい状態でした.
その後は、胃が無いということで、食事にはいろいろと苦労があり、下痢なども続いたようですが、基本的にガンの再発もなく1年が過ぎました.ところが、手術からちょうど1年後の2013年1月の検査で腫瘍マーカーの数値が上がりはじめ、しばらく様子を見ているあいだもコンスタントにマーカー値は上がり続けたため、ガン再発、と言う診断になったのですが、CTでも何も写らず、PET CTというガン専用の検査でも何も写らず、どこにガンがあるのかわからない状態がずっと続きました.ただその間もマーカー値は上がり続け、主治医に、ガンの部位不定だが抗がん剤の使用を提案されました.ただ、抗がん剤はガンも痛めつけるけれど、正常な体も痛めつけるので、必ず副作用が出るし、その副作用も人によってどんな種類の症状がどれくらいの強さで出るかはやってみないとわからないので、抗がん剤を使うことは最適解ではないですと言われました.つまり、飲んでみて、あまりに辛い副作用が出るのであれば、飲まない方がよっぽど幸せな人生を送れるので、飲むか飲まないかの最終判断は患者さんの気持ちにまかせるというものでした.で、まあ、うちの父は抗がん剤を飲み出したのですが、最初はなんの副作用もないように見えたのですが、やはり何ヶ月か繰り返していくと、血液の状態が悪くなり、栄養失調になったり、手足のむくみがひどくなりました.下痢がひどくなったりしたのも副作用かもしれません.
お盆休みのころには、下痢がひどくて脱水症状になって、毎日近所の病院に点滴を受けに行っていたのですが、その病院がお盆休みになるということで、一時的に日赤病院に再入院しました.脱水症状なのに手足のむくみと腹水がひどくて、足なんか、足の甲の上に肉まん乗せているみたいな状態で、スリッパも履けないんですよね.で、抗がん剤も一時的に中断ということになったのですが、退院してからしばらくして、血液の状態がある程度回復したということで、主治医のすすめで、もう一回だけ抗がん剤に挑戦してみませんかということになって抗がん剤をはじめたのですが、しばらくすると、やはり下痢で脱水症状になって、手足のむくみがひどくなって、また日赤病院に入院することになりました.それでもう、退院することは出来なかったんですけどね.
父も母も、もう治らないことはわかっていましたので、どこで死ぬかということを考えた場合、いくつかの選択肢があるのですが、自宅療養をしながら、それ専門の医師に往診をしてもらって、介護士の方とかいろんな方に協力をしてもらって、自宅で最期をむかえるというのを二人は選択しました.それに向かって、担当してくれる医師を決めたり、肩口に、点滴専用の器具を埋め込む手術をしてもらったりして、週が明けた月曜日には退院をして自宅に戻ると、そういうつもりでいた日曜日の朝に異常が起こったんです.
朝の8時ころに父から電話がかかってきて、寝違えたみたいで左の脇腹が痛いから、看護婦さんに湿布を貼ってもらったって.「すぐ行くから、待っててくれ」って電話を切ったら、今度は当直の医師から電話があって、痛みがガン由来かもしれないので、緊急にCTを取りますと言うことでした.で、母とあわてて病院に行ったら、酸素吸入をして、半分意識が無くなって、「痛い、痛い」って言ってたんです.どうも横行結腸から下降結腸に移るあたりが周期的に痛くなっているようでした.そうこうしているうちに兄も到着して、当直の先生も交代して、その先生と話をしたのですが、朝撮ったCTの結果から見ると、それ以前に撮ったものと比べても、明らかに腹水の量が倍ほどに増えているということでした.これ以上の延命をするより、とにかく痛みを取ってもらいたいというのが本人と家族の総意でしたので、モルヒネを処方する手続きをはじめたところ、病室から連絡があって、容態が急変したと.行ってみたら、もう意識が完全にない.その時点で初めて心電計を付けたのですが、心拍数こそ125ほどあったのですが、血圧が47と30と表示されていて、看護師さんが言うには、これは機械が表示できる最低値なので、実際は血圧は限りなく0に近い値だろうということでした.そのころ妹が千葉から新幹線で名古屋に向かっていたのですが、到着まであと1時間半くらい、看護師さんに聞いたところ、この状態であれば、あと40分から50分くらいでしょうといわれたのですが、どんどん心拍数が下がっていって、本当にそれから50分で亡くなりました.
私は金魚を飼っていて、今までたくさんの金魚を★にしてしまって、そのたびに亡くなっていく金魚をじーっと見ていたのですが、人間も金魚も亡くなるときは同じなんだなぁと思いました.心拍数が下がって(金魚の心拍数はわからないけど)、呼吸の間隔がだんだん開いてきて、でも思い出したように「私はまだ生きてますよ」って言うようにほんの2回か3回呼吸が正常に戻ったように見えても、また元の状態に戻って、そんな事を繰り返しているうちに、最期の一呼吸.悲しいという感情はほとんど無くて、ただ金魚の時と同じように「苦しかったのに良く頑張った」と声をかけました.彼の人生全てを思い浮かべても、「良く頑張った」という言葉以外、思いつきませんでした.
あとは葬儀屋に電話さえすれば、レールに乗ったようにことは淡々と進み、あっという間に病室も片付けられて、最後に病室に忘れ物がないか確認して部屋を出るときに、不意に思い付きで振り返って、部屋に向かって深々と頭を下げて、大声で「どうも大変お世話になりました!」って、叫んでしまいました.ちょっとだけ悲しい気持ちがしたのは、その時だけです.
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